人はパンのみにて生きるに非ず

だが、せめて食のときは豊かでありたい

食の記憶 ep1 :婆ちゃんのメシとヒロタのシューアイス

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婆ちゃんは気丈な人だった。東京大空襲の被害が最も大きかった江東区深川地区で、激しい戦火の中赤ん坊だったお袋を抱え、命からがら紙一重のところで生き延びた。そして戦後の貧しく混乱した時代の中、自由奔放でやがて早死にしてしまう夫の面倒もみながら一男三女を育てあげた。

言葉には出さなかった...というより当人があまり語りたがらなかったが、筆舌に尽くしがたい苦労をしてきたであろう事は容易に想像がつく。

 

 婆ちゃんは厳しい人だった。特に長女だったお袋には「これからの時代、女も"学"がなくちゃいかん」とスパルタ教育だったという。

我々孫達の前ではいつもニコニコ優しかったので、全く想像もつかない。

 

婆ちゃんは食べ物の有り難さに強い思いがあった様だ。いつも優しかったけど好き嫌いや食べ残しだけは厳しく叱られた。

お袋は婆ちゃんが戦後身につけた素材の全てを残さずに調理しきる術を徹底的に叩き込まれたらしい。俺が実家で調理しているときなどは「お前そこも捨てるのかい?食べられるのに」等と指摘される事がある。

 

婆ちゃんが作るメシはとても旨かった。煮魚、煮物、和え物、炊き込みご飯といったごく庶民的な品々が中心で、豪華さは無いけど素材の味を活かした素朴で優しい家庭料理といった趣だった。兵庫出身だったのもあり、全般的に関西風の薄い味付けだった。そんな婆ちゃんの作るメシの精神は、確実にお袋へ、叔父、叔母へ、そして孫達へ引き継がれていったと思う。婆ちゃんのメシの旨さと親戚達と遊ぶ楽しさも相まって、俺はいつだって親戚一同が婆ちゃんの家へ集う日が待ち遠しかった

 

婆ちゃんはたくさん食べるととても喜んだ。そしていつもたくさん食べるよう促した。だから俺たち孫は婆ちゃんの喜ぶ顔見たさもあってお腹が苦しくてもお代わりをした。たくさん食べて、みんなよく笑った。それがこの上なく幸せだった。

食後、大人達が酒宴に移行する中、孫達にはよくヒロタのシューアイスが振る舞われた。それは孫達だけでなく婆ちゃんの大好物でもあった。チョコレート味とイチゴ味は取り合いだった記憶がある。

 

年を重ね、従兄弟達も進学・進級していき、婆ちゃんの家に集う事も少なくなっていったが、正月と盆は必ず集まり、皆でメシを囲んだ。食卓に並ぶのはお袋や叔母達の作った料理、出前の寿司など、徐々に婆ちゃんが作る割合が減っていった。

人って衰えるものなんだなと、多感な時期に学んだ。

 

叔父の転勤により、婆ちゃんの晩年に1年ほど家族と同居した。患ったアルツハイマーがまさに進行中で、俺の名前すら分からなくなりかけていた。そんな中でも、婆ちゃんはお袋の作ったメシを毎晩満足そうに食べていた。

婆ちゃんが残さず食べるところを見ると、何故だかホッとした。

 

やがて俺が大学へ進学して一人暮らしを始めた頃、婆ちゃんは入院した。もう婆ちゃんのメシが食えないんだって事に気が付くと、途端に堪らなく悲しくなった。

アルツハイマーは更に進行してしまったが、時折意識がはっきりしている時があった。そんな時、婆ちゃんは俺がお見舞いに持参したヒロタのシューアイスを大層喜んでくれた。

 

数年間の闘病生活の末、結局婆ちゃんは帰ってこなかった。お通夜では、俺は何故か涙が全く出てこなかった。孫達の中には泣き崩れる者も居たが、通夜振る舞いの席では婆ちゃんと一緒に食卓を囲んだ記憶が蘇ったせいか、孫一同大いに酒を飲み、苦しくなるまでメシを食い、各々が婆ちゃんの記憶を語らいながらたくさん笑った。婆ちゃんのメシをみんなで囲んだ、あの幸せでいっぱいだった瞬間と完全に重なっていた。

帰路につくと、地下鉄の駅で巡り合わせたかの様にヒロタのシューアイスを発見した。だいぶ酒が回ってたのもあり、購入すると礼服のままおもむろにその場で食べた。何かが堰き止めていたであろう涙が急にどっと溢れてきて止まらなかった。

 

ふとした瞬間になんの脈略もなく婆ちゃんの事と、あの旨かった婆ちゃんの作るメシの品々を思い出す事がある。そんな時は、「そうだ、そろそろお墓にお線香をあげてこよう。ついでにヒロタのシューアイスを買って帰ろう。」なんて事を思い付く。

 

"食の記憶"は"人の記憶"と共に在る。